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第二部 経済・社会を変える

第八章 活力ある社会をつくる

女子学生就職難は社会のもろさの象徴


  最近、大学生の就職難が叫ばれている。しかし、私はこれ自体を深刻な雇用問題とは思っていない。大体、バブルの頃の安易な就職こそおかしいのであって、最近の就職状況が当たり前である。職を得る、特に納得のいく職を得るのがそれほど簡単なはずがない。まして、ろくに勉強もしない学生が、いきなりチヤホヤされるような社会こそゆがんでいると私は思う。
  しかも、就職難といっても、それはいわゆる有名な大企業に就職するのが難しいということであって、今でも多くの中小企業は大学生を採用できずに困っているのである。まして、豊かになったとはいえ、家庭の事情などによって大学へ行けなかった若者も少なくない。そのような人たちからみれば、何が就職難かということになる。
  もちろん、バブル時代に学生をチヤホヤして極端な大量採用を行い、ちょっと不況になると掌を返したように極端に採用を絞る大企業にも責任はある。必要もない人数まで根こそぎ採っていくため、不況になると過剰雇用になって、採用は停止するの、中高年は削減するの大騒ぎである。 
  しかし、この大学生の就職問題を見て、私が最も問題だと思うのは、こうした現象面ではなく、学生たちの有名、大企業志向の背景にある弱さである。大きな有名企業に就職して、その傘の下で安泰な生活を送ろうという考えがそこにある。このような学生は、たとえ大企業に就職しても、いずれ現在の中高年のように肩たたきにあって、こんなはずではなかったと後悔するだろう。
  この部分を変えていかなければ、私は、日本の社会を本当の意味で活力ある社会にすることはできないと思う。
  活力ある社会とは、個人が生き生きとしている社会である。個人が自立している社会である。企業組織の中に埋没して、そこで安逸をむさぼるような社会ではない。そして、もはや、日本はそういう社会を望めない地点まできている。
  これまでの産業社会のどこに問題があり、どのように変化しつつあるのか。雇用の面からみていこう。
  大学生一般の甘ったれた就職難には必ずしも同情しない私でも、女子学生の就職問題については憤りを禁じえない。男子学生には配布される資料が女子大生には送られてこないとか、男子学生には就職解禁前に面接して早々と内定を決めているのに、女子学生には解禁前を理由に会わないといった事例は枚挙にいとまがないようだ。
  確かに企業には、どんな人間を採用するかの自由がある。しかし、日本には企業の使用者側も賛成してできた男女雇用機会均等法があるのだ。企業は自分たちも賛成してできたこの法律の趣旨にのっとり、少なくとも女子学生に男子学生と同じ機会を与えるべきである。
  建て前と本音は違うというのであれば、何をかいわんやである。
  もし女子学生をいらないというのであれば、雇用機会均等法に徹頭徹尾反対すべきである。そうでないなら、きちんと法律は守るべきだと思う。
  なぜ日本の企業は女子学生をこのように敬遠するのか。私は、ひとつには女子学生は男子学生に比べて個が確立しているからだと思う。企業の人が、よく、「女性は使いづらい」というが、これはそのことを示している。 
  女性は、企業の都合で転勤を命令しても簡単には応じない。家庭も大事だという観点から、残業などもおいそれとはしてくれない。せっかく教育しても自分の都合で会社を辞める。そのくせ、自分のキャリアがどうであるなどと自己主張はする。企業にとって実に使いづらい存在だ、というわけだ。
  しかし、これからの日本にとって、このように自己主張する個の確立した人材が大切だとすれば、よくないのは自己主張する女子学生ではないはずだ。むしろ、自己主張する個人を使いこなせないでいる企業の仕組みにこそ問題があるといいたい。
  なぜ、日本の企業は個の確立した個人を使いづらいのだろうか。その理由は、日本の企業制度、いわゆる日本的雇用制度にあると思う。このことは、経済学者や経営学者が明快な理論で裏付けてくれている。
  企業と個人の間には長期的な貸し借りの勘定があるという考え方である。つまり、日本的雇用制度の根幹をなす終身雇用制度と年功賃金は、入社から定年までの長期にわたる企業と個人の貸借勘定だというのである。この長期的な貸借勘定のゆえに、肩たたきにあって悲嘆にくれる中高年の悲劇は発生し、大学卒業時の就職が人生の一大事になり、女子学生は就職の場から締め出されるということになる。
  具体的にいえば、まず入社したての若手社員には多額の費用をかけて教育訓練を施す。そのかわり、その社員が教育訓練の結果、高い能力を発揮するようになると、その能力より低い賃金を払うことにより、その訓練費用を回収するのである。
  そして、若いときの訓練費用を回収したあともなお能力よりも安い賃金で働いてもらって、会社のために尽くしてもらう。いわば、今度は従業員の側から企業に資金を貸し付ける形になるのである。そうした資金を利用して、企業は投資などを行い成長する。そして、それらの従業員が中高年になったら、管理職などにつけ、今度はその時の能力より高い賃金を払うことで、以前の借り入れを返済するというやり方である。
  サラリーマンは働き盛りの貸しを返済してもらうため、企業に成長してもらわないといけない。そのために、自分も企業を成長させようと頑張るわけだ。このやり方は、企業も個人も一連托生の運命におくシステムにほかならない。
  特に、企業との一連托生の程度は、まだ会社への貸しを貯めていない若者より、すっかり貸しをつくってしまった中高年において大きくなることはいうまでもない。勢い、個人はその分だけ会社に埋没せざるを得ないのである。企業の幹部はこのような社員を使いつけている。このため、自己主張する女子学生は、自分勝手で無責任だ、仲間に入れるわけにいかないなどとして門前払いするわけである。

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