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第二部 経済・社会を変える

第七章 国民のための行政にする

重税になる「人にやさしい」だけの行政


  このような状況の変化に対応して、行政の任務として何が具体的に期待されているのか。対外的な課題としては、ポスト冷戦時代を迎えての多極構造による世界経済のマネージメントが挙げられるだろう。
  それは、これまではアメリカの役割だった。しかし今や巨大な債務を抱えたアメリカは、相対的にはいざ知らず、絶対的な力を失ってしまった。とくにアメリカの通商法三○一条に代表される、相手国を一方的に制裁するようなユニラテラリズム(片務主義)に対して、諸外国からも厳しい目が向けられている。
  日米と並んで三極の一つであるヨーロッパも、当面の問題は雇用と失業である。放っておくと保護主義に陥り易い体質になっている。OECDなどの場で、「貿易と労働慣行」といったテーマが話題になりがちである。生産性向上といった前向きな施策も、それが雇用の機会の縮小につながる恐れがあると腰が引けてしまう。
  ただ、最近のヨーロッパは少しずつ自信を取り戻しているといわれる。いずれにせよ、収束力を喪失している多極がバラバラに動き出せば、収拾がつかなくなる。
  そういった世界情勢を認識し、日本もそのうちの一つの極を担っている、担わされていることを自覚しなければならない。外交については次章で触れるが、いつまでもアメリカの陰であと追いを続けるわけにいかない。アジア地域における日本の存在は年毎に大きくなっているのである。とくに製造業では、日本と東南アジアは今や一体化しつつある。
  従って、欧米のアジアを見る目は、あたかも日本の分身を見る目である。アジアで問題が起きたとき、日本がそれを自らの問題として対処しなければ世界は納得しない。今後のアジアの発展で、先進国からの技術移転が必要だというときは、日本の企業が技術移転を渋っていると解すべきである。アジアの資本不足が問題になれば、日本の金融・資本政策が不適切であると反省すべきである。
  それぞれが責任を負い、それぞれが正しいと思うスタイルを主体的に判断し追求しながら、共通の基盤作りをして他の二極と協調して行かなければならない。
  日本はそれだけ大きな責任を持たされるようになってきた。
  これは、過去の政・官・財の努力の賜であることは確かだが、今ではその延長線上に様々なあい路が出てきている。このことを十分踏まえて、対外政策を進めなければならない。同様に、国際経済システムが制度疲労を起こしていないか検証する作業も必要である。アメリカのつくった戦後のブレトンウッズ体制はGATTやWTOへの変貌に象徴されるように大きな曲がり角にある。
  サミットでも、欧米の指導者からこの点について問題提起があったという。また、世界銀行やIMFが「南北問題」や「市場経済化支援」に十分なテコ入れが出来ないという批判を聞いて久しい。いずれにしても、日本の適切な対応なしでは、三極は安定しない。欧米が決め、日本がツケを払うという構図を、欧米も欲しているわけではない。
  他方、国内的に必要なことは、国がやるべきことを必要最小限におさえ、「口出ししない政府」を実現していくことである。今まではなんでもかんでも責任を国になすりつけ、それによって国の介入が増え、なれ合い構造になっていた。国の介入にはお金がかかる。国民の求める「安くて親切な行政」は、結果として重税主義になってしまうのである。
  学校は安く、病院も安く、サービスは迅速に、といったら役人の数は増えるばかりだ。事故が起きないよう安全対策を万全に、といったら役人は何でも規制をつくり介入してしまう。
「人にやさしい」だけの行政は、「コストがかかる」という当たり前のことをぜひとも国民的コンセンサスとしたい。しかし、国民や企業も相対的にはその水準がどんどん上昇し、今では政府に頼るまでもなく各自が自らの判断で対処できるようになっている。改革を進めれば、将来をそれほど悲観することはない。
  国の関与すなわち役所の介入を最小限にし、たとえば「安全基準」なども民間が自分で責任を持って定められるとなると、どういった行政分野のウエイトを上げるか、また下げるかが現実の問題となってくる。この場合、行政を企画部門と実施部門とに分けて考える必要がある。

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