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第二部 経済・社会を変える

第五章 官僚統制を完全撤廃

権限を守ることが官僚の本能に


  同じことだが、ある大きさのパイを各省庁に切り分けるときは、その時に何が必要かではなく、先例ではどうなっているかで決まることが多い。先例のない決定をしようとすると、必ずどこかの役所が反対し、決定が出来なくなってしまうからだ。
  最近、公共事業配分比率の硬直性というものがマスコミを賑わした。道路、空港、港湾、漁港といった公共事業費への配分比率が、何年たってもほとんど変わっていないという問題である。これは考えてみると奇妙な
話で、それぞれの事業の必要性は時代によって違ってくる。また、これから五年間は空港整備に重点的に投資し、そのあとは高速道路に投資する、といった計画性があってもおかしくないが、そういう時期的な変動もない。
  予算の額は年々増えているのに、配分比率はコンマ以下しか変わらない。官庁の中の官庁といわれる大蔵省でさえ、公共事業費の配分比率を変更する力はなかった。高度成長期の日本のように全体のパイが増え続けているなら、多少、その切り方がいびつになってもあまり不満は出ないだろうが、これから先はこういう訳にいかない。
  このように、官僚組織は視野の狭い、まるでタコ壷のようになっているのである。官僚たちは、その中での出世しか夢が見られないように宿命づけられている。
  ところが、トップに大臣をいただく各省庁は、一種の運命共同体である。それは自分自身の統一した意思をもち、しかも閣議での拒否権という形で、政府全体の意思決定を阻止する力を与えられている。そのために、各省庁の意思というものはあっても、政府全体の意思とういものは、実は存在しない。
  よほど政治的な判断でない限り、日本政府としての意思は、いずれかの省庁の意思を全体の意思として了承するという形で行われる。
  つまり、大臣の数と同じ二十ほどある各省庁というのはそれぞれ独立した「生きもの」であって、日本政府は、一つの統一した組織というより、それらの連合体という見方が実態にあっている。
  そういった「生きもの」の栄養は、権限と予算である。
  この栄養によって「生きもの」が肥え太るには、二つのルートがある。一つは、権限に応じた定員が役所に配分されることで、官僚自身のメシの種になる、ということである。権限があれば役所には仕事があることになるので、それに応じた人を配置することを、大手を振って要求できる。
  もっとも、総定員法というものがあって、国家公務員の定員全体には枠がはめられており、全体としての定員は増えないことになっている。つまり、政府の二十の「生きもの」全体は大きさが常に一定である。政府全体としては太りも痩せもしない。だが、新たな行政課題は常に発生するから、多くの場合、新たな定員がそこに認められることになる。そのための定員は、他から削って持ってこなければならない。
  つまり、新しい権限がついた役所の力が増大する反面、どこかが貧乏くじを引いて定員を削られることになる。このため、新たな問題が発生すると、どこが所管するかで役所間の激しい争いが演じられるのである。その場合、どの役所が所管するのが国益にかなうか、ということはあまり考慮されない。省益、庁益が役人にとっては絶対のものだからである。
  逆に、いったん権限を手放してしまうと必ず定員も削られることになるので、権限を削られることには死力を尽くして抵抗することになるのである。
  だから、規制緩和に官僚たちが必死に抵抗するわけだ。
  しかしもっと重要なことは、権限を通じて官僚が特定の業界を「所管」するということだ。たとえば通産省には、自動車、鉄鋼、化学繊維といった産業ごとに対応する課がある。タクシー業や航空輸送業は運輸省が所管しており、放送は郵政省が所管している。行政の対象は全国に及ぶので、役所の側は地方の出先機関や都道府県・市町村を通じて権限を行使することが多い。
  他方、業界にはそれぞれ業界団体といわれるものがあって、全国あるいは地域ごとに、業界の意向をまとめるようになっている。役所と業界団体はほぼ一対一に対応し、前者が後者を規制するという関係になっている。

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