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第二部 経済・社会を変える

第八章 活力ある社会をつくる

労使の分配率を変える


  ところで、これまでみてきたような長期的な収支勘定を合わせるやり方は、個々のサラリーマンと企業の関係だけでなく、日本の労使関係全般にみられたものである。景気がよくても賃上げはほどほどにして企業の内部留保を高め、それを投資に振り向けて生産規模を拡大するという考え方である。
  これは量的成長をめざす企業にとって好ましいだけでなく、労働側にしても、現在の賃上げを我慢してもそれによって将来の生産を拡大し、長期的に安定した賃上げをかち取るという戦略だった。
  つまり、現在のパイのとり分を大きくするより、将来のパイ自体を大きくすることで、企業側も労働側もより大きな成果を得ようという考え方である。そして事実、これはある時期まではうまくいっていた。経済が右肩上がりで、年々成長していたからである。しかし、日本経済が成熟し、もはや量的な高度成長は望めなくなってくると、このやり方は必ずしもうまく機能しなくなってきた。
  その例が、バブル経済にいたる状況である。一九八○年代は円高不況といったものはあったものの、今からみると日本企業にとって黄金時代であった。しかし企業の業績に比べて賃上げが抑制された結果、労働側への分配は低下していった。企業の内部留保は拡大し、製造会社のなかでも○○銀行などといわれる企業さえ出てきたのである。
  その結果起きたことは、生産規模の過剰な拡大と、余剰資金運用のためのバブル経済である。低金利という条件もあったが、企業利益をもう少し労働側に分配していたら状況は違っていたかも知れない。
  こうしたなかで、勤労者が豊かさを実感できないと感じだしたことは深刻である。いま我慢すれば後で良いことがあると考えてきたのに、我慢した結果はちっともよくならない。労働者が我慢した留保分を投機などに使われたのではたまらない、ということになろう。
  恐らく、これからの労使分配は、個人の場合と同様にもう少し短期収支を合わせる方向に修正されないと、労働側は納得しないのではないだろうか。企業が儲かっているときはしっかりと労働側に分配する。そうしていかないと、企業と個人間の富の遍在はますますいびつなものになってしまう。
  もちろん、労使の配分をもっと短期収支に、ということは、業績の良くない時期には賃上げはなし、ということもありうるという意味だ。企業側に儲けのないときに、労働側の分配が伸びないのはこれまで述べた富の配分という観点から当然だろう。
  要は、パイの取り分を企業側にも労働側にも偏らないように、その時どきに、切り分けていくということだろう。
  労使の分配に関して、もう一つ忘れてならないのは経営責任のことである。会社がアップアップしているときに、雇用を抱えきれずに結果としてそこで働く労働者にしわ寄せされることは、まま見られることである。これは、しょっちゅうあってはならないとはいえ、市場経済のもとでは避けられない。
  市場経済のもとで、企業は絶対安泰ということはないのだから、場合によっては企業生き残りのために、賃金カット、雇用削減もありうると考えなくてはならないだろう。
  あのバブル崩壊後の雇用調整もそうした点からいうと、不可避だったのかも知れない。しかし、そこで不可解のは、そうした雇用調整をする企業の経営者があまり責任を取っていないのではないかということだ。バブルのときに横並びで大量採用を行い、バブルが崩れると一転して雇用調整というのは、基本的には経営の見通しの甘さを示すものである。その経営の結果を労働側にだけしわ寄せをしてよいはずがない。
  バブル崩壊は誰も分からなかったのだから、経営責任はないというのは通用しないだろう。それならば、労働者にはいっそう責任はないからだ。少なくとも、何らかの形で雇用調整、賃金カットにいたった経営者は、その責任を明確にすべきではないだろうか、と私は思うのである。
  競争が厳しくなる時代、労働者も安閑とはしていられなくなる。しかし、そうであるならば、経営者はもっと安閑としてはいられない。経営者の中には、政府による規制に依存して、その撤廃に反対するものが少なくない。内では労働者に甘え、外では政府に甘えていては何のための経営責任者か、ということになる。
  個人の自立も重要だが、もっと重要なのは企業の自立かもしれない。そのためには、経営者の責任感覚の確立こそ大切であろう。

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