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第一部 政治を変える

第二章 小さな政府で真の福祉を

自律的市民がボランティア活動の主役


  一方、市民運動型は政治の失敗が契機になっている。たとえば、地域の上を飛行機が飛んで騒音によって不眠症になり頭も痛い。それなのに政府は何もやってくれない。これはひどい、ということで連帯して起ち上がり政府に抗議行動を起こす。
  この場合は、住民の自主的な活動というより、不満を吸い上げるチャンネルが伝統的地域社会をベースにした政治の場にないため、そこが詰まって爆発しているのだ。このため、抗議の窓口としては従来の野党である社会党や共産党が起用される。イデオロギー色が帯びるのはある意味で自然なことであろう。   そして、あくまで政治の失敗の落とし子であるかぎり、たとえその運動体がボランティア的な活動をしても、本来の意味でのボランティア団体とは異なるのである。
  しかし、現代の日本社会にも、本来の意味での自発的なボランティア活動が定着する土壌ができてきた。そのことを阪神大震災のボランティア活動が示している。日本人の意識構造が変化しつつあるのだ。
  その理由は、日本の地域社会に変化が起きているからだと私は思う。
  最近は、共通の目標や共通の興味や関心をベースに人間関係が形成される動きがみられるのである。これをコミュニティと呼ぶなら、このコミュニティは出入り自由である。入っても嫌になれば切ってもよい。入りたい者は原則、誰でも歓迎される。
  このことは、いわば地域社会を無意味にする。さまざまな情報ネットワークが発達することによって、交友関係は日本の枠さえ越えて広がる可能性を持っているからだ。 
  ところが、こういう関係が、実は地域社会の中でも結ばれつつあるのではないだろうか。この場合の住民の意識は自律的で、意思決定においても、自己主張が盛んに行われる。単に自己主張するのではなく、同時に他者を理解しようとする。その中からコミュニティとしての意思決定がなされるのである。
  そうなってくると、地域社会の性格はかなり違ってくる。地域活動は多様で自主的なものになり、出入りも自由となる。何よりも住民自身の議論を通じて集団としての意思決定がなされるので、責任の所在も明確である。
  最近、全国各地で町おこし、村おこしが盛んになされているのは、その一例である。この活動に参加している人々は、学生時代を東京で過ごしたとか、都会に就職していたが村へ戻ったというように、一度、地域社会を抜け出して戻った人が多いようだ。彼らは、自分が生まれ育った地域社会を相対的に見る目を自分なりに持っている。
  このような人々の意識の変化を、私は、ボランティア活動へ誘導する必要があると思う。具体的にはどうするか。
  私が個人的にボランティアに関心を持つようになったのは、数年前に起きたサンフランシスコ大地震だった。この地震で、アメリカのNPOの災害ボランティアが大活躍したことを報道で知った。そこで、これは面白いと思い、当時自民党にいた私は同僚議員と「ボランティア議員連盟」を旗揚げして研究を始めた。しかしこの時は、湾岸戦争や政治改革論議が白熱する中で、開店休業の状態となり、忘れられてしまった。
  その経験があったので、阪神大震災では、新進党学生部の学生をつれて現地入りした。私はなるべく口出ししないで学生自身に活動を任せていたが、彼らは、子どもたちの勉強が遅れているという点に注目して、学習ボランティアを始めた。子どもたちは、最初は警戒していたようだが、ゲーム機を利用するとか、からだを動かす遊びを導入など工夫が実って大成功だった。延べ五十人ほどの学生を送り込んだが、中には一か月も現地滞在した者もいた。

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