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< 教育改革について >
 森本―時間が迫ってまいりましたね。私は大学で5つ教えているのですが、大学の教員だから別に教育者だとは思っていません。ワシントンの日本大使館に勤務をし、アメリカの大学を出て、つくづくアメリカの社会を見て日本を見たときに、日本は20年くらい遅れてずっと追いかけてきている。いいか悪いかは別として、日本の教育というのは先生がおっしゃるように、すべてが平等、すべてが人間の社会の一コマになるように、最低限の知識を教えるということで教育は成り立っていたのですが、現代の社会というのは、非常に細分化され、それぞれの社会のプロというものが、それぞれの能力を活用する非常に厳しい競争社会なのです。その競争社会の中に、生き抜いていく素材と素養をどのように引き出すかということが重要である。「エデュケーション」という言葉は、ギリシャ語でいうと「引き出す」という語源からきているはずです。
 そういうことを考えるとやはり、船田さんがおっしゃるように、すべての人が平等で、すべての人が能力があり、すべての人が努力をすればあるところまで行くという教育は嘘なんです。だから、最初から厳しい競争社会の中に生き抜いていく個人の、それぞれの素材をどうやって育てるかという教育は、18、19世紀頃にヨーロッパで行われていた教育のあり方です。そういった要素は日本の社会の中にないものです。平等を重視する日本の教育は、日本の社会を同じ顔をした特色のない、すべての人が同じことを言う金太郎アメみたいな社会をつくります。会社が倒産すると全部足を引きずって職を探さないと行けなくなる。本当のプロというのは、職を失っても皆が来てくださいといって引っ張りにくる社会だと思うんです。
 だから、それも政治の大きな課題として、私もここにおられるみなさんも、船田さんのこれからの政治活動に非常に期待をかけて、21世紀の日本の新しい社会の国家像を作ってもらおうと思い、みなさんお集まりなんだろうと思います。船田さんの肩はすごく重いんですよ。これから21世紀を日本の国が生きていけるように、今は苦しいんですが、こうなったら豊かになるんだという日本の有様をできるだけ皆さんに示していただく政治をやっていただきたいと思いますし、またそれをみなさん期待していると思います。…なんかシンとしてしまいました。(笑)
 船田―責任重大ですね。先ほどの話に戻りますが、私は教育に限らず日本の社会というのは「結果の平等」を求めてきた。そこに限界がきているんですね。そうではなくて、「機会の平等」だと思います。みながスタートラインに立って、多少ハンデのある方には少し援助があって、ヘッドスタートを同じにする。しかし、努力した人は努力したなりに、しない人はしないなりに結果を得るということで、「結果の平等」より「機会の平等」を大事にしようということです。教育に限らず、政治の世界でも経済の世界でもいえるとことだと思っています。「それなりに写ります。」(笑)というフィルムの宣伝がありましたが、それと同じようなことで私はいいと思うんです。そういう日本の社会や経済構造を求めていくべきだと思っています。それをやるためにも、政治のステージに上がりなおさなくてはいけないものですから、是非応援をお願いします。
 森本―船田さんにも平等な機会を、ということですか。(笑) すごい結論になりましたね。ありがとうございます。
 船田―ありがとうございました。(拍手)

< おわりに >
 司会者―多岐にわたりまして、歯切れのよいディスカッション、誠にありがとうございました。我々は生活していても、21世紀というものを肌で感じられないのですが、それを身近に感じたような気がします。皆様よりおふた方に拍手をいただきまして、ディスカッションを終了させていただきます。どうもありがとうございます。(拍手)

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