←本・エッセイのTOPへ
←前のページへ
次のページへ→

生きた政治学ノートU
2/8


(2)細川連立政権の成果と限界

新しい政治スタイル―

 連立政権の成果は、まず政治改革関連法を成立させたことだが、細川総理自身の独特の行動が、我が国の政治に新しいスタイルを持ち込んだことも特筆される。例えば総理は講演や記者会見において、原稿を透明なアクリル板に投影する「プロンプター」を好んで使ったこと。またアンカレッジで開催されたAPEC首脳会議の際、セーターに真っ赤なマフラーという、歴代総理には到底真似の出来ないファッションを披露したこと。記者会見で質問者を指名するときに、ペンで相手を指差す動作をしたことなどである。
 このような斬新な政治スタイルを随所に示したことで、閉塞状況にあった旧来の自民党政治を変革してくれそうだと、細川内閣に大いに期待していた国民に、一層の人気と期待を与えることとなった。

既得権益からの一定の距離―

 昭和30年の保守合同以来、38年間も自民党が政権を独占していた。しかし細川内閣が初めて非自民政権として誕生し、与党としての義務であり特権でもある予算編成や国会運営を、ほぼ無事にこなすことが出来た。自民党以外の政治勢力でも与党としての責務が負えることを、戦後日本の政治においてはじめて示した意義は大きい。
 また政策判断の是非は別として、自民党政権では決して許すことのなかったコメのミニマム・アクセスについて、細川政権は平成5年12月、国際協調の観点を重視して受け入れを決定した。平成6年度予算編成も、特定の既得権益からの影響を出来るだけ排除して、予算編成することが出来た。このように既得権益からの一定の距離を置いて政権運営が出来たことは、細川政権の成果の一つであった。

*政権の中核を占めた新生党内では、自民党政務調査会とほぼ同じ組織、すなわち中央省庁と横並びの部会や調査会を置いて、予算編成にコミットしたり業界団体からの陳情を受けていた。「自民党政治を打破する」、あるいは「決別する」というスローガンとは矛盾した新生党内の状況は、細川政権の限界を一方で示すものといえる。

「8頭立ての馬車」といわれた危うい政権運営―

 細川政権を構成した政党・会派が8つであったため、同政権は「8頭立ての馬車」と揶揄され、政党間の意見調整に非常に多くの時間が費やされた。後に連立政権内の意見調整の専門機関として「政策幹事会」と「政務幹事会」が設置され、その弊害を除去しようと努力した。しかしそれでも難航し、政党の合併は無理としても、国会内で共同行動するための「統一会派」を結成する必要性が、次第に論じられるようになった。

*筆者は平成6年4月から7月までの4ヶ月間、「政務幹事会」のメンバーとなり、のちに座長を務めた。政党間の意見調整に大きなエネルギーを費やし、連立政権としての新味の政策や国会運営を打ち出す余裕がなかったことは、極めて残念であった。


(3)細川連立政権の崩壊と新進党の誕生

少数与党の羽田政権―

 細川総理は自らの佐川急便との不明朗な関係を、国会やマスコミから厳しく追及され、平成6年4月に突然政権を投げ出すこととなった。その後継として連立与党内では新生党党首・羽田孜氏に決定し、本会議での首班指名も順調に行われた。 
 しかし同時に進められていた、与党の統一会派「改新」構想について、社民党や新党さきがけの幹部には十分な根回しがなかったため、これに反発して閣僚就任を拒否した。彼らは当初、閣外協力をする約束だったが、次第に野党色を強め、羽田政権はついに少数与党に追い込まれた。

*社民党や新党さきがけの反発は、統一会派結成への根回し不十分という理由に加え、連立政権の運営において、新生党幹事長・小沢一郎氏の強引な姿勢に危機感を抱いていた彼らが、政権から距離を置くための口実に使ったという考えもある。

 その後社民党とさきがけは、先に総理を辞任した細川護煕氏の予算委員会証人喚問に賛成し、ついには平成6年7月、羽田総理に対する自民党からの不信任決議案に賛成して、羽田政権を引きずりおろしてしまった。

自社さ連立の村山政権の誕生―

 羽田政権は衆議院解散でなく総辞職を選んだが、直後の首班指名選挙で連立側は急遽、自民党の海部俊樹元総理を擁立した。自民党内の若手批判勢力が海部元総理の離党に同調することをもくろんだ「ウルトラC」戦略だが、ほとんど同調者はなかった。

*海部俊樹氏に同調して自民党を離党した議員は、わずか2名であった。

 一方自民党はそれをさらに上回る戦略をとった。すなわち社民党党首の村山富一氏を首班候補としてぶつけてきたのである。結果は自民党の超「ウルトラC」戦略の勝利に終わり、自・社・さ政権が誕生することとなった。

新進党発足と解散―

 政権を追われた新生党、民社党、公明党、日本新党は、連立与党時代の様々な教訓を生かし、一つの政党として機動性を発揮するために、平成6年12月に「新進党」を結成した。平成7年7月の参議院選挙では自民党を上回る得票を獲得して躍進したが、同8年10月の衆議院選挙では大幅に後退し、同10年1月に解散した。

 このように連立政権も新進党も、旧来の政党の枠組みや人脈を解消することが出来ず、自ら内部崩壊を起こしてその短い寿命を閉じることとなった。非自民勢力が政権を担当出来ることを証明したり、政治改革を進めるという成果を上げることが出来たが、その後、多くの政治家の進路や運命を翻弄させたことは間違いない。

このページのトップへ

←本・エッセイのTOPへ
←前のページへ
次のページへ→

HOME今後の予定はじめのOpinion政策提言本・エッセイはじめ倶楽部経歴趣味Linkはじめに一言

Copyright(c)1996-2003 Hajime Funada. All rights reserved.