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平成12年4月3日
衆議院議員 船田 元 学級崩壊から教育の崩壊へ 我が国は戦後、子どもたちが荒れる顕著なピークを3回記録している。最初のピークは戦後の混乱期で、貧困に基づく少年非行の増加である。2回目は昭和30年代半ばの不況の頃。3回目は昭和50年代半ばであり、この時は学校内で荒れるケースが目立ったため、これらをまとめて「校内暴力」と呼ぶようになった。 そして現在4回目のピークを迎えているが、今回はこれまでの荒れかたとは少し違う。「いじめ」「不登校」など問題行動が陰湿化しているし、殺人に至るような強暴さも持つようになった。さらに深刻なのは、教師の懸命の努力にもかかわらず授業自体が成り立たないという、いわゆる「学級崩壊」現象が都市部周辺で急増している。まさに学校教育の崩壊の前兆と言っても過言ではあるまい。 原因を一言でいうことは至難だが、学校・家庭・地域のそれぞれが本来持っていた「教育力」を失ったことが大きい。例えば家庭では、かつての父親の威厳と祖父母の優しさが、今は少ない。また街中の公園や原っぱにこだましていた子どもたちの元気な声、そこで自然に覚えた遊びや餓鬼大将との付き合い方など、今やほとんどなくなってしまった。 教育改革は制度いじりではない このような我が国教育の危機的状況を、 政治や行政はただ手をこまねいて見ていたわけではない。佐藤内閣の中教審答申、いわゆる「46答申」や、中曽根内閣における「臨時教育審議会」が有名である。特に後者は6・6制の学制改革や学区の自由化など意欲的な提言を行なった。しかしともすると教育制度をどう変えていくかにエネルギーを使い過ぎ、目の前の子どもたちに何を教えるべきかという、より現実的な議論に行き着かなかったのは残念である。 先ごろの橋本内閣は、財政構造改革や行政改革などの後に教育改革を掲げていたが、 手付かずのまま退陣した。次の小渕内閣では金融改革や景気回復に一定の目途をつけ、 いよいよ教育改革に着手しようとしている。「教育改革国民会議」の発足だが、メンバーの顔ぶれは余りにもヘビーだし、今後1年もかけて議論する猶予を教育現場は与えていないのではないか。 教育基本法を変えるべきか? 教育基本法に掲げた教育目標は、ただ「人格の完成」を謳っているだけだ。戦後の世論は基本法を改正して、もっと具体的な「望ましい人間像」を書き込めとする勢力と、憲法と同様戦後の民主教育の守り神だから、指一本触れてはならぬとする勢力の間で、火花が散った。肝心の子どものことをそっちのけで、対立したこともしばしばである。 私はその何れの立場でもない。改正をことさら強調するつもりはないが、以前のような不毛の対立を招かずに改正でれば、次の内容を追加すべきと考える。 まず教育の基本姿勢を加えるべきだが、それは子どもをどう見るかによって大きく変わる。 性悪説に立てば子どもをスパルタで訓練して、大人や社会が望ましいと思う人間に仕上げることが教育となる。性善説ならば子どもを放任し、むしろ何もしないことが最善の教育ということになる。 過去の教育論はこの間を行ったり来たりして、しばしば不毛の対立を生んだ。しかし実際、子どもというのは最初から良くも悪くもない。「良くなろうとしている存在」と考えるべきだろう。そう見ると教育とは、子どもたちの「良くなろうとしている」エネルギーを援助することである。まずはこのような基本姿勢を盛り込みたい。 第2に「道徳心」などという曖昧な概念でなく、他人の立場が分かり、他人の気持ちを汲み取れる「パブリック・マインド(公徳心)」を、子どもたちに身に付けさせることである。 第3には将来の日本を担う子どもたちに、創造力と自己責任の心を持ってもらうことである。これら2つのマインドは、教室の中で先生が何度唱えても簡単に身に付くものではない。子どもたちに実際に他人とのかかわりを経験させ、様々な問題を自分たちで解決させる機会を一杯与えないと、決して身に付かない。 本物を教える学校教育を 今の学校や教室には本物があまり置かれていない。先生の版書も、教科書もLL教室も、パソコン教育ですらそこで示される事物はにせものであり、しかも本物に大変近いにせものである。擬似体験の連続といっても良い。子どもたちは正直であって、にせものにはあまり感動せず、本物には大いに感動する。感動するところに興味が湧き、探求心が生まれる。感動から始まる授業を我々は子どもたちに用意すべきではないか。 いよいよ平成13年度から15年度にかけて、新しい学習指導要領がスタートする。基礎基本を重視するとともに、一方では子どもたちの自発的な学習機会を与えることが目玉である。それが「総合的学習の時間」の導入である。今までの主流であった系統学習ではなく、子どもたちの自発的な活動や取り組みを中心に置いて、問題解決学習を推進することだ。 どういう学習をさせるかは各学校や個々の教員の裁量に任されているが、例えばボランティア活動やコンピュータ教育、あるいは修学旅行や林間学校などの学校行事をさらに展開しても良い。このような授業を行なうにあたっては、実社会で様々な分野で活躍する特別講師を、外部から積極的に受け入れることは大変効果がある。また異年齢集団の教育力を活用した学習活動、即ち「原っぱの遊び」を復活させることなども学習の方法として有用である。 親と地域を授業の中に巻き込もう このような「総合的学習の時間」を、どうやって組み立て準備するかが、今教員の一番の悩みという。そのうち「早く教科書を作って文部省から一律に指導してもらいたい。その方がずっと楽だ。」という悲鳴が聞こえてきそうだ。現に10年ほど前の小学校での「生活科(理科と社会の複合科目で低学年に設置された)」の実施の時も、教員からの同様な意見が出されている。しかしここは我慢して教科書を当てにせず、子どもの自発的活動を中心に授業を組み立てるべきだ。 「総合的学習の時間」をこれからの学校教育で活かしきれるかどうかが、我が国の教育再生の鍵を握っているといっても過言ではあるまい。しかしこのような授業を教員だけで準備するのは不可能に近い。親の中には自ら教壇に立って子どもたちに貴重な体験談を語れる人もいる。様々な生きた教材を集めてくる器用な人もいるはずだ。親や地域を学校の授業の中に巻き込んでいくくらいの展開をすべきである。 このような考えを更に発展させた学校の形が、アメリカ社会で始まった「チャータースクール制度」だ。 従来は受身の姿勢に終始していたPTAの殻を破って、親たちがどんどん教壇に立ち、地域の人々が役割分担しながら学校を運営している。我が国では様々な制約があってなかなか実現しそうにないが、文句ばかり言うのはやめて、地域の学校を良くするためにどうすればいいかを皆が考え始めるところに、教育崩壊を防ぐ第一歩がある。 |
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