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第二部 経済・社会を変える

第八章 活力ある社会をつくる

誰でも他人の役に立てる社会がいい


  身体障害者に対する政策も、障害者が何もしないで生活できるようにするというよりは、障害によるハンディキャップを克服できるように、いろいろな条件の整備をして、障害者が社会生活に参加できるような対策が重要である。ここで「社会生活」というのは、所得に結びつくような活動も当然含まれる。
  各種の障害者に対する対策は、政府レベルでは少しづつ充実が進んでいる。道路の縁石の切り下げ、音響式の歩行者信号、電車ホームや歩道の点字ブロック、車椅子用のスロープ、身体障害者用のトイレなどの整備が進んできているが、地下鉄におけるエレベーターやリフト付きのバスなど、まだ欧米に比べて遅れている面もある。
  こういう改善はどんどんやっていく必要がある。同時に、最近いわれ始めている「ノーマライゼーション」という考え方も注目に値する。これは障害者や高齢者が一般の人々と同じような社会生活の営みの中で、権利も義務も平等な形で普通に参加すべきである、というものである。
  これは、機会の平等に通じるものがある。権利だけでなく義務も平等にする、というものであるが、その前提にあるのは社会への参加を平等に、ということである。これは、結果の平等を所得において達成するよりも、ある意味では大変なことである。
  すなわち、いろいろなハンディキャップの形態に応じて、きめ細かく、かゆいところに手が届くように、機会の平等を達成するというのは、財政的にも行政的にも、なかなか大変なことである。
「結果の平等よりも機会の平等を」というのは、一部で批判されるように、決して弱者切り捨ての論理ではない。むしろ、結果の平等だけを求める論理の方が、弱者の社会参加を軽視するという意味で、弱者切り捨てであるといわざるをえない。
  弱者救済という言葉は、非常に通りやすい言葉である。弱い人も助けましょう、いたわりましょうといえば、小学生でも納得する。逆に反対すれば、人間ではないかのような批判を浴びることになる。
  このため、弱者切り捨てだ、と批判されるのを恐れて、福祉の問題となると、きっちりとした議論がなされないまま、なし崩しに政策が実施される。それも、えてして中途半端で総花的な政策になってしまうのである。これでは、いくら税金をかけても本当の意味での福祉国家とはいえない。
  どうしてこうなるかというと、弱者救済だということで、機会の平等も結果の平等も関係なく、とにかく弱者を助けるべきだという議論に流れがちだからだ。
  その結果、保護が過剰であってはならない分野にまで行き過ぎた保護がなされてしまうのである。
  規制の問題に即していえば分かりやすい。たとえば企業間に競争がある。競争に負けた企業は、その結果そのものが弱者の証明になる。ところが、競争に負ける前に、負けそうだというロジックだけで、そこに手厚い保護がなされる場合が多い。しかし、これは機会の平等の保証ではない。「成功」という結果を保証している。
  結果の平等を保証しているのである。これでは競争自体が成立しない。努力しなくても負けないことを保証されているからだ。その裏返しとして、同じ業界で強い業者は行動の自由を拘束され、新たに参入しようとする企業家は、参入そのものを禁止される。
  機会の平等が損なわれているわけである。
  これと似たことが福祉の分野でもあるのではないだろうか。日本では、自らを弱者だとする者の声が通りやすい。民主主義の原則を超えて、自称「弱者」の要求がどんどん通る社会である。そして、必要でもない福祉予算がその方に回され、本当の弱者に対する福祉政策が無視されるか、不十分だったりする。
  私が、結果の平等ではなく機会の平等をこれほど強調するのは、本当の弱者が十分に救済され、しかも、再び社会参加できるようにするためである。
  人間の生きる喜びとは何であろうか。他人の世話になって安逸に暮らすことであろうか。そういう生活を幸福であると思う人も中にはいるだろう。しかし、そういう人々は例外である。
  人は、他人の役に立ったとき本当の喜びを見いだすのではないだろうか。人の生きる喜びとはそうしたものであると私は信じている。それは社会的弱者といわれる人々でも同じことだ。他人の一方的な世話で生きることに、本当の喜びはない。
  機会の平等をできるだけ実現し、すべての人が何らかの形で他人の役に立てるようにすることこそ、本当に意味のある社会政策であると思うのである。
  それが実現したとき、日本の社会は活力にあふれた社会となる。そのためには、国の活動だけでは不可能だ。政治家や役人だけに任せていても実現できない。
  政治も行政も社会活動も、他人任せにするにするのではなく、一人一人が、自分こそ主人公であるという意識のもとで、何らかの形で活動に参加する必要があると思う。

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