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第一部 政治を変える

第一章 国民を主人公とする政治


政治不信を生む理由

 昭和五十四年秋、私は初めて総選挙に出馬、初当選を果たした。当時、まだ二十五歳でしかなかった私だが、いきなり目の当たりにしたのが、自民党の「四十日抗争」であった。永田町における権力闘争は、外で見るよはるかに壮絶であった。そこを支配していたのが、いわゆる「永田町の論理」である。
  自民党の大半の議員と同じく、やがて私も派閥に所属することとなり、田中・竹下派に入った。派閥に入って痛感したことは、永田町の論理にどっぷり浸かっている議員が極めて多いことだ。この流れの中に入り込むと、人は、現在の状況が永遠に続くものと思いこんでしまう。当時、自民党議員の誰もが、自分の目の黒いうちは自民党政権が続くと信じていた。かくいう私自身、そう思っていた。
  こうなると、政治家の目には国民が見えなくなる。見えるのは党内の勢力地図であり、その趨勢であり、最大の関心事は、どの派閥が総理・総裁の椅子を取るか、誰が大臣になるか、ということだけになりがちだ。
  現在、政界地図は大きく変わっているが、政治家のこの体質は、現在でもあまり変わっていないと思う。むしろ、当時の野党である社会党にまで広がり、それが、ますます政治的混乱を招き、国民の不信を買っているのではないだろうか。
  もちろん、国を思い、国民生活を思う政治家がいなかったわけではない。鈴木内閣のあとを受けて中曽根内閣は国鉄分割民営化をはじめ行政改革を断行したし、竹下内閣は消費税の導入という、わが国で初めての本格的な税制改革を実現した。当時、国民やマスコミはこぞって非難したものの、この改革はシャウプ税制以来の画期的な大改革であり、わが国の財政にとって極めて意味のある改革であった。
  さらに、海部内閣は、内外の課題に迅速に対応できるよう政治改革を試みた。これには選挙区や政治資金という政治家個人の既得権に対する思惑が絡んでいたため問題が複雑になり、実現にはいたらなかったものの、その基本的な方向は間違っていなかったと思う。
  このような先輩政治家たちによる改革の一方では、国が抱える問題は、より複雑困難になっていった。
  中曽根行革が終わりを告げる頃は、すでに現行の年金、保健制度は限界に達しており、高齢化社会がピークになる二十一世紀初頭には確実に破綻するという懸念が出てきた。
  経済をみても、バブル現象とその崩壊は、現在の日本経済の構造がすでに破綻しつつあることを示している。
  そして海外では、ソ連が崩壊し、東西冷戦は終結したものの、それまで抑制されてきた宗教対立や民族対立が顕在化して、国際情勢はより複雑になっている。東西の枠組のタガがはずれて中国や朝鮮半島の情勢も流動化している。
  このように、わが国内外には深刻な問題が横たわり、さらに悪化しているのに、海部内閣による政治改革の試みは、与党自体を大混乱に陥れ、ついに、党内最大派閥の竹下派は分裂するにいたった。このときは、私自身も抗争の当事者となり、小沢一郎氏と行動を共にして、橋本龍太郎氏らと連日のように議論した。
  この抗争を、国民は、永田町の論理による権力闘争に過ぎないと見たようだ。これまでの自民党の抗争を見てきた国民がそう考えるのは無理もなかった。
  私にとってあの抗争は、従来の意味での権力争いではなかった。純粋に政治の改革をめざした闘争であった。
  そのことは、宮沢内閣後半で経企庁長官として入閣し、派閥から距離をおいて大臣室でじっくり政治状況を眺めたとき、よりいっそう確信できた。抗争の渦中にあったときは、まさか政権中枢にいた自分たちが五五年体制を突き崩す旗振り役を果たすなど考えもつかなかった。しかし、真剣に政治改革を主張するなら、必然的に、五五年体制そのものの打破へ向かわざるを得ない。 
  その帰結は、自民党を出ることであった。
  こうして、「改革フォーラム21」が宮沢内閣不信任案に賛成するにいたり、四十年つづいた自社五五年体制は終わりを告げた。
  その結果は、さらなる政治的混乱である。この混乱が、いっそう、国民の政治不信を募らせたようだ。

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